柳田 国男。 柳田国男 年中行事覚書

柳田国男とは

☎ 亥の子と 十日夜 ( とおかんや )が別の日ではなかったように、その十日という日も必ずしも固定してはいない。 それを 攀 ( よ )じ昇って 天竺 ( てんじく )まで行くと、ある家の裏の垣根にやっと蔓の端が引掛かり、今にもはずれそうになっていたけれども、折よく水汲みに出た女が前の女房であぶない所を手を執って引上げてくれた。 例えば 十和田 ( とわだ )の湖水から 南祖坊 ( なんそぼう )に 逐 ( お )われてきて、秋田の 八郎潟 ( はちろうがた )の 主 ( ぬし )になっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった。

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つまり、 学問用語なのに映画の中にさらっと入ってしまって全く違和感がないというすばらしい学問が「民俗学」なんです! しかも、この「かたわれ時」を含めた言葉を ちゃんと学問としてまとめた人物こそが柳田国男なんです! こういうことを聞くと、民俗学の内容や柳田国男について興味が湧いてきませんか? 今回は、柳田国男について• 大体からいうと、 墓薙 ( はかな )ぎ 盆道 ( ぼんみち )作りなど、十五日の先祖の訪問の待受けに力を傾けていたが、同じ 序 ( ついで )を以て 井戸替 ( いどが )え 虫払 ( むしはら )い、この日の水で洗うと汚れがよく落ちるといって、女たちは必ず髪を洗った。 伊藤幹治 『柳田国男と文化ナショナリズム』 、2002年 - 晩年の弟子の一人• 頭の髪赤くちゞみて、 面貌 ( めんぼう )人に非ず猿にも非ず、手足は人の如くにして、全身に毛を生じたり。

柳田國男

☘ 方々捜しあぐんで 一旦 ( いったん )家の者も内に入っていると、不意におも屋の 天井 ( てんじょう )の上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。

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明治の初年、肥後球磨郡の 四浦 ( ようら )村と深田村との境、高山の官山の林の中に、猟師の掛けて置いた 猪罠 ( ししわな )に 罹 ( かか )って、是も一人の若い女が死んでいた。 8月の休館日 *赤 日 月 火 水 木 金 土 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 9月の休館日 *赤 日 月 火 水 木 金 土 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 福崎町立柳田國男・松岡家記念館 Copyright C Fukusaki Town 2011. 近ごろ世に出た『まぼろしの島より』という一英人の 書翰集 ( しょかんしゅう )に、南太平洋のニウヘブライズ島の或る農場において、一夜群衆のわめき声とともに、 頻 ( しきり )に鉄砲の音がするので、驚いて飛び出して見ると、若い一人の土人が魔神に 攫 ( つか )まれて、森の中へ 牽 ( ひ )いて行かれるところであった。

作家別作品リスト:柳田 国男

☘ それから幾日かを経て同じ山道を戻ってくると、今度はその子供が首を 斬 ( き )られて同じあたりに死んでいたのを見たという。 これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は 潔斎 ( けっさい ) 衣冠 ( いかん )して、 御炊上 ( おたきあ )げと称して 小豆飯 ( あずきめし )三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。

従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよ 以 ( もっ )て前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。

柳田国男 年中行事覚書

☮ 市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く 只 ( ただ )声を呑みてかたへに隠る。 村によっては流し火と称して、 藁 ( わら )や 麦稈 ( むぎわら )などで作った燈籠を流すが、これも灯が消えずに遠くまで流れて行くほど、夜分 睡 ( ねむ )くならぬなどと言伝えている (同郡郷土誌稿巻三)。

近畿諸府県を始めとして、北でも南でもこの日山に登る風習は広く行われていて、それだけは少なくとも 仏誕生会 ( ぶつたんじょうえ )とは無関係である。 食物はことごとく 生 ( なま )で食べた。

福崎町立柳田國男・松岡家記念館

👐 その中間に於て、関東地方とこれに隣接するやや広い区域が、両度の八日節供を相対立するものとして、 均 ( ひと )しく休みまた祝っているのであった。 その中でも 眠流 ( ねむりなが )しまたはネブタ流しというのが、これからそろそろ始まる夜仕事に、 坐睡 ( いねむ )りの出ぬまじないだったことは、前に信州随筆という本に詳しく書いておいた。

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私の仕事なども取掛りが遅かった故に、間に合うかどうかは甚だ心もとないが、一人で為し遂げられぬなら手分けをしてなりとも、もう少し前の方へ推し進めておきたく、それにはまた時機もあり持場の適不適もあるかと思うので、ここに 讃岐 ( さぬき )の同志の 鹿島 ( かしま )立ちの日を利用して、一つサンバイサンのことを説いておこうと思う。 その地に 注連 ( しめ )を 繞 ( めぐ )らし飯酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。

日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論

🙏 動機は初めから 潜 ( ひそ )んでいたので、ただこの地方の如く発展して来た事実だけが特異なのである。 身 ( み ) 親 ( した )しくこの出来事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に当然の結果のように思われる。

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此 ( この )山の御神の母御名を 一神 ( いちがみ )の 君 ( きみ )と申す。

日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論

⚔ 正月にはことに歯で 咬 ( か )み砕いて、 米嚼 ( こめか )みのくたびれるようなものが多かったが、それ等はことごとく不人望になり、しかも人間の歯はあべこべに、もとよりも悪くなっている。 それからまた 常陸坊海尊 ( ひたちぼうかいそん )の仙人になったのだという人が、東北の各地には住んでいた。 すなわち彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、これを聴いてありうべからずとすることができなかったとすれば、そは必ずしも 漠然 ( ばくぜん )たる空夢ではなかったろう。

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女にはもちろん不平や 厭世 ( えんせい )のために、山に隠れるということがない。

柳田國男

📱 或いは 里神楽 ( さとかぐら )の山の神の舞に、 杓子 ( しゃくし )を手に持って出て舞うからというなどは、もっともらしいがやや 循環論法 ( じゅんかんろんぽう )の 嫌 ( きら )いがある。 『ことばの聖 柳田国男先生のこと』 筑摩書房、1983年 - 全集(初刊)の編集担当者• もっとえらいのになると、二十年もしてから 阿呆 ( あほう )になってひょっこりと出てきた。

半分正気づいてから 仔細 ( しさい )を問うに、大きな 親爺 ( おやじ )に連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねばならぬといって、駆けだそうとしたそうである。 此度 ( このたび )も半月ほど過ぎて 越後 ( えちご )より帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。

日本の祭:柳田国男

🤲 祭は同じ四月の八日で八人の童女を玉串を以て定め一月の 物忌 ( ものいみ )させて神事に仕えしめた。 もし後の方ならば、この 霜月祭 ( しもつきまつり )の日の選定には、始めから自然の指導を受けていたことになるので、我国の気象を研究する人たちと共に、もう少し進んで考えて見たい問題である。 和納の 楞厳寺 ( りょうごんじ )で文字を習い、 国上 ( くがみ )の寺に上って侍童となるまでは不良少年でも何でもなかった。

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これとよく似たことで今日弘く行われているのは赤ん坊があまり早く例えば一年以内にあるき始めると、大きな 餅 ( もち )を 搗 ( つ )いてこれを脊負わせ、それでもなおあるくと突き倒したりする親がある。

小林秀雄と柳田国男

🤐 関東地方では一帯に、この晩人里を 窺 ( うかが )う怪物を一つ目小僧様、すなわち眼一つの恐ろしい姿をした者と言い伝えて、しかも様の字を添えて呼んでいる。 かつて羽前の 尾花沢 ( おばなざわ )附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。

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猿の 婿入 ( むこいり )という昔話がある。 天とうではちょうど 胡瓜 ( きゅうり )の季節で、二人の取持ちに畠から胡瓜を採って来て出した。

小林秀雄と柳田国男

😅 それを確かめる方法としては、各地の言い伝えを多く集めて、細かに比べて見るのが尋常の順序であるが、 寺方 ( てらかた )では 夏花 ( げばな )は盆のかかりまで、一夏中を通して立てておくというに反して、多くの民家では八日を過ぎれば卸して川へ流し、または乾かし貯えて雷鳴の日に 焚 ( た )いたり、牛が 遁 ( に )げた時のまじないに 盥 ( たらい )に伏せたりする。 年を尋ねると百五六十と答え、 強 ( し )いて問いつめるとかえって忘れたといって教えなかった。

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全く 以 ( もっ )て参らすまじとて過ぎにけり。 すなわち以前は相応に 頻々 ( ひんぴん )と、処々にこのような異様の出来事があったかと思われるのである。

柳田国男 家の話

♨ 禁忌 ( きんき )をこういう風にある作物だけに限局しておけば、農民の行動もよほど自由にはなるわけだが、単にそのために発明せられたものとしては、今ある 由来譚 ( ゆらいだん )が少しばかり奇抜過ぎる。 それを飛んでもない所で区画して、他の一方を無視したから、今は一段と 根原 ( こんげん )が不明になったので、祭はもう一度、改めてこの側面から、見なおす必要があると、私などの考えている理由はここにある。 日次 ( ひなみ )記事に依れば、 東寺 ( とうじ )などで花摘といったのはこの日花御堂を結構して、 小釈迦 ( こしゃか )の銅像を安置することで、この日また比叡山 戒壇堂 ( かいだんどう )の 仏生会 ( ぶっしょうえ )に、女人等の常は登拝を許されざる者も参詣し、同じ序に 東坂本栗坂 ( ひがしさかもとくりさか )の上なる 花摘社 ( はなつみのやしろ )に詣ずるとある。

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9 柳田國男』 、1998年 DVD版は『学問と情熱 柳田國男 - 民俗の心を探る旅』で、2008年8月に再版。 「昔宮古島 川満 ( かわま )の 邑 ( むら )に、 天仁屋大司 ( あめにやおおつかさ )といふ天の神女、 邑 ( むら )の東隅なる宮森に来り 寓 ( ぐう )し、 遂 ( つい )に 目利真按司 ( めりまあんじ )に嫁して三女一男を生む。