関ヶ原 の 戦い 布陣 図。 関ヶ原合戦-軍勢配置図①

1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半)

⚠ 」【旧記雑録後編 三】(一部要約) (本国の薩摩では庄内の乱を鎮圧した兄 義久が実権を握り、国内政権から疎外された義弘への派兵は認められにくい状態だった) その後8月22日、島津義弘は墨俣の渡しの守備につく。 【徳川家康文書の研究 中巻】 8月23日、福島隊の細川忠興・加藤嘉明らが岐阜城(織田秀信:三法師、信長の嫡孫) 兵数5,300 を攻撃。 ) (西軍)9月14日、小早川秀秋 兵数8,000 が近江 高宮から北上、松尾山城へ移動する。

【9月12日付 祖式長好宛 吉川広家書状】 (この時点で南宮山に兵数25,000、大垣城に兵数30,000となる) 鍋島勝茂は父直茂から東軍への攻撃を中止するよう指示を受け、長島城の抑えとして進軍を止め、滞陣する。

関ヶ原合戦-軍勢配置図①

👌【家忠日記増補追加 1663年 】 西軍主力部隊の動き (西軍)9月14日20時頃、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ向かう。

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【毛利輝元・宇喜多秀家・長束正家・増田長盛・石田三成・前田玄以 連署状 廊坊篤氏所蔵】 8月1日、同じく奉行衆は木下利房・木下勝俊へ、前田軍の南下に対して北ノ庄城 城主 青木一矩 への加勢を命じ、5日に出陣するようにと伝える。 。

関ヶ原合戦-軍勢配置図①

🤑 また東海道の掛川城 山内一豊 、駿府城、岡崎城 田中吉政 などの諸城に徳川譜代を配置し、在番させることとした。 (その後家臣が上洛している) 【中川家文書】 岐阜城の戦い (東軍)8月19日、黒田長政らは家康の到着後に木曽川越えと岐阜城攻撃を予定していたが、家康の使者 村越茂助と話し、家康出陣の見込みが立たないことがわかったため即進軍することを決定。

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9月13日、進軍した黒田軍 兵10,000 と木付城攻撃中の大友軍 兵2,000 が交戦、黒田如水が勝利する(石垣原の戦い)。

1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半)

🤲 【寛政重修諸家譜 1812年 】 伊勢方面へ向かう予定だった毛利元康、小早川秀包、立花宗茂ら 兵15,000 が大津城を攻撃する。

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【関原始末記 1656年 】 (【関原軍記大成 1713年 】による杭瀬川の戦い 島左近が東軍に動揺する兵を静めるため出陣を提案、島左近・蒲生備中守・明石全登が出陣。 【秀忠書状】 (東軍)8月24日、秀忠 榊原康政・大久保忠隣・本多正信ら徳川譜代家臣 兵数38,000 が上田城へ出陣。

関ヶ原合戦-軍勢配置図①

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1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半)

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関ヶ原合戦-軍勢配置図①

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関ヶ原合戦-軍勢配置図①

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